March course
父の所属;
中支那派遣軍、軍直轄部隊 野戦重砲兵第5旅団(内山英太郎少将)、野戦重砲兵第十一聯隊(朝田彌五郎大佐)
昭和(西暦) |
アルバム、軍隊手帳、文献から分かった行軍経路 |
|
|
12/9/16 (1937) |
愛知県 春日井市在住 支那事変応召 |
12/11 |
上海 |
12/12 |
南京 |
13(1938) |
鎮江 |
13/3 |
揚州 |
13/4 |
寒山寺 |
13/4 |
鎮江 朝田部隊 |
13/4/28 |
鎮江 野戦演芸会の写真 |
13/6、7 |
揚子江 安慶へ。 三度目の句容。 武漢攻略へ。漢口 |
13/8 |
文献1;陸軍少尉 内山英太郎の報告書『 信陽城攻略戦における砲兵隊の戦闘』(昭和12.12~13.10)(防衛研修所戦史室所蔵)より下記が分かった。
第十一聯隊長は朝田彌五郎大佐。馬の死亡が多く、第11、12聯隊、旅団輜重隊に13年4月にトラック50台が配置された。車種はシボレー、フォード、トヨダ。 ■漢口作戦の開始; 8/26 鎮江を出発。9/2安慶に上陸。9/13より行軍 安慶>桐城>舒城>9/27六安>9/28葉家集>10/4商城>10/5光州>羅山>信陽>欄杵舗の戦闘>10/11信陽駅>10/12信陽城陥落。この時期独立気球第2中隊と行動を共にする。 10/22信陽出発>羅山>光州>商城>麻城>10/26黄波>孝感>漢口は既に陥落。 |
13/9 |
斬首写真; 文献1から舒城(シューチョン、南京と武漢の中間)を通った時期が特定できる。1938年9/13安慶>桐城>舒城>9/27六安までの間の出来事と考えられる。 |
13/11 |
信陽 |
14/1(1939) |
信陽 |
14/2 推定 |
占領軍に施しを求める子供たちの写真: 戦争ニハ敗ルナ死ンデモ。 支那ノ子供ヲ見ヨ 腹ヲスカシテ食フ物モナク |
14/3-4 |
漢水 野戦重砲小島兵団快足部隊第一中隊 |
14 |
漢口 安慶 南京 揚子江 から帰国 |
14/7/17 |
復員解除 |